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【十字軍時代までの】初期 イスラム世界について

  • 2020年5月3日
  • 2020年5月12日
  • 歴史

 

 

じめに

現代にまで深刻な問題を引きずっている宗教戦争の発端(特に十字軍時代あたり)を理解する上で最低限知っておくと良いであろうイスラムの知識を、今回はご紹介したいと思います。

この内容を知った上でキリスト教世界 vs イスラム教世界の書物を読むと現代までの紆余曲折、根本的な概念の相違、あの事件はなぜ起こったのかなど、かなり理解度が変わるかと思います。

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イスラムからみた十字軍

 

(分かりやすさ・書物を読む際の助けになる最低限の知識に要約してご紹介してますので、詳細の割愛・説明の言い回しに関してはご了承を!)

 

スラム教の成立

イスラム教は西暦622年に、現在のサウジアラビア、メッカでムハンマドによって創立された世界三大宗教の1つです。

 

創立者:ムハンマド
ムハンマドはメッカで生まれ、もともとはキャラバン(隊商)でシリアに商品を買い付けにいく商人でした。

※キャラバン:商人が旅をする際、商品の輸送に伴い旅の途中にあう略奪や暴行から集団的に身を守る為に組んだ隊のこと。
(砂漠をラクダに乗って横切る団体のイメージが強いかと思います。。こんなやつ↓)Isle of Graia3

 

当時アラブでは多神教。万物に神を見出し、日本の様に御神体として木や岩、石なども祀られていました。
社会情勢はというと貧富の差が拡がり、部族抗争も多く、倫理的にも堕落した状態にムハンマドの目には映っていた様でした。

商品の買い付けでシリアへ度々行っていたムハンマドはそこでユダヤ教・キリスト教について知り、一方で自国の多神教は社会の問題を何ひとつ解決してくれないじゃないか、と自分の所属する社会の主宗教への疑念と不満を抱いていたのではと言われています。

 

610年、ムハンマド40歳の時、メッカから5キロ程離れたヒラー山の洞窟で1ヶ月間の瞑想を行っていた際、天使カブリエルが現れ、そこで初めて啓示(神の言葉/意志を示される事)を受けたと言われます。そしてその後も何度か啓示は続きます。

このムハンマドの受けた啓示(神の言葉)をまとめたのが「クルアーン(イスラム教の聖典)」

 


ヒラー山の洞窟

 

この神の言葉を広める活動はメッカにおいては10年間行っても信者は100人ほどまでしか増えず、むしろこの様な活動をするムハンマドを危険視する勢力の迫害が大きくなっていきます。

622年、メッカから北へ500キロほど離れたメディナに信者たちを引き連れてムハンマドは移住、そこで教団を設立すると信者を増やすことに成功。メディナの人々はムハンマドを受け入れ「ウンマ」と呼ばれるイスラム共同体ができます。
(メディナへの移住の622年をイスラム暦では元年としています)

この「ウンマ(イスラム共同体)」は政治と宗教を一体化させた政教一致のイスラム国家の始まりとなります。

 


© OpenStreetMap contributors

 

ムハンマドを受け入れたメディナ vs ムハンマドを迫害し事実上追放したメッカの戦いが始まり → 630年にメディナ軍がメッカを征服。これにてアラビア半島は宗教的・政治的にイスラムに統一されることになりました。

 

 

イスラム教の

最後の預言者としてのムハンマド

まず、イスラム教はユダヤ教・キリスト教の預言者達(モーセ・イエス)も認めています。

ムハンマドはその時系列として最後の預言者として選ばれた。モーセ・イエスの教え(ユダヤ・キリスト教の聖典)はその使徒たちが編集をし時代を経てその内容が歪曲されてきた、つまり人間の言葉を聖典化してしまっている。そのため神はその正しい言葉を伝えるべくムハンマドを最後の預言者として選んだ。というのがイスラム教徒の解釈と言われています。

 

偶像崇拝禁止

イスラム教では最高神アッラー(他宗教で言うところの、ユダヤ教:ヤハウェ、キリスト教:ゴッド・ファーザー)は世界、自然、宇宙、それらすべての包括的な存在であり、肉体を持つものではないと解釈されており、そのため偶像(神ではないものを神に見立てること)を認めていません。

※本来偶像崇拝はユダヤ教・キリスト教・イスラム教全般で禁止されています。
すべての基となる旧約聖書にその禁止が明記されているからです。

キリスト教ではこれを破った宣教活動を行っていたこと(絵や像を使ってイエスの物語を教えたり、それを崇拝対象にしていたこと)がイスラム教から激烈な批判にあい、偶像崇拝を禁止した東ローマ帝国の東方正教会と西ローマのカトリック教会の教派分離に繋がっています。

『アッラーが“唯一”神であり、アッラー以外を崇めてはいけない』という大原則が重視されるので、キリスト教が「イエス=神の子」としている認識を否定します。全ての預言者はあくまで「人間」であり、よってムハンマドも崇拝の対象にはなりません(キリスト教徒がイエスやマリアの像に拝むような事はムスリムでは起こりません)。

 

クルアーン

アッラー(神)の言葉をまとめたイスラム教の聖典。日本語で「読むもの」の意。

内容は
・一神崇拝(アッラーのみを信じ崇拝するべし)の教え
・他預言者(アダム〜イエス・キリスト)たちについて
・最後の審判や世界の終末について
・現世の法規定(ex.遺産相続や結婚の決まりetc)について 等々

ユダヤ教・キリスト教の聖典が人間(聖職者や神学者達)の解釈による言葉で構成されているのに対し、クルアーンは神の言葉をそのまま写したもの(つまり神の言葉そのもの)とされています。

「神の言葉を正しく伝える」ということをイスラム教では重視しているため、アラビア語以外に翻訳されたものは“クルアーン”としては認めていません。(翻訳自体は否定されていませんが、何人のムスリムでも礼拝時はアラビア語でクルアーンを唱えることが義務)

 

シャリーア(イスラム法)

行為に関わる決まり事

イスラム教では宗教と世俗を分けません。つまり人間が生きる上で行う殆ど全ての営為に神の判断を借りるという事です。
ムスリムは行動の判断基準としてこのイスラム法(神の教え)を参照します。

裁判法、婚姻関連法、遺産相続法、商法、宗教行為や日々の行為まで。

レベルも定められています↓
やらねばならぬ事
やった方が良い事
どちらでも良い事
やらない方が良い事
やってはならない事

またやるべきと決められていた事が出来なかった場合の“埋め合わせ”行為まで定められています。

殺人や窃盗など特定の犯罪行為には刑罰が定められていますが、豚肉や酒の飲食などのような日常行為に関する罰則は定められていません。

何かが起こり、ムスリムとしてどう行動すべきかが分からない時に人々はウラマー(イスラム教の学者/知識人)を尋ねてイスラムに沿った行動規範を教えてもらいます。
行動規則が明記されていない事柄へのムスリムとしての正しい行動は、クルアーンとムハンマドの言動(スンナ)を2大典拠として決まります。
このムハンマドの言動(スンナ)の伝承をまとめたものがハディース集としてありますが、こちらはスンナとしての信憑性が問われるものも含まれるため、どのハディースを採用するかは非常に慎重に吟味されます。

 

六信五行

言葉の通り、ムスリムが信じるべき6つのものと、行うべき5つのことです。

六信
→神・クルアーン・預言者・天使・来世・天命

天使:光から成る、知性を持った存在(羽があるらしいです)神に与えられた任務を行う
来世:死後の世界(天国・地獄のような場所)
天命:世界に起こるありとあらゆる事は神の定めによるとすること(→つまり全ての結果も人間の行動に起因するのではなく、神の手に委ねられているとする感覚です)

五行
→信仰告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼

信仰告白:「アッラーは私たちが仕えるべき唯一絶対の神である。ムハンマドはその使徒である」と唱えること
礼拝:1日5回メッカの方向を向いて拝むこと
断食:1年に1ヶ月(イスラム暦の9番目の月)日の出ている間は飲食・煙草・性行為を断つこと
喜捨:財産は貧しいものに分け与えること
巡礼:年に1度メッカへ巡礼すること(これは可能な人のみで良しとされる)

 

ジハード(聖戦)

大ジハード:自分に勝つ事
小ジハード:相手に勝つ事(戦闘等)

イスラム法としてのシハードは異教徒との戦闘を意味します。
ジハードの際にも、戦争を開始する手続きに始まり、女子どもを殺さない事、戦利品の分配の仕方や捕虜の取り扱いなどを定めるイスラムの戦争法に基づき実行される事が必要です。

このように法で定めることによって、戦争下でも人間が欲望のまま暴走する事がないようにしています。

 

3大聖地

・メッカ(サウジアラビア):ムハンマド誕生の地
・メディナ(サウジアラビア):イスラム教成立の地、ムハンマドの住居や彼が建てたイスラム教初のモスクが残る
・エルサレム(イスラエル):天使ガブリエルがメッカのカアバ神殿にいたムハンマドを一夜にしてエルサレムの神殿に連れていき、その神殿の上の岩から昇天して(天の世界に行き)、歴代の諸預言者と神に会ってきた。という伝説の地


メッカ カアバ神殿


メディナ 預言者のモスク


エルサレム 岩のドーム

 

言葉(よく書物に出てくる最低限知っとくと良いもの)

・ムスリム=イスラム教徒
・ウンマ=イスラム共同体
・ウラマー=イスラム教についての知識人(※キリスト教で言うところの「聖職者」はイスラムにはいません)
・カリフ=ムハンマドの後継者、宗教指導者のトップ(≒キリスト教で言うところの教皇:宗教権力)
・スルタン=実権を持つ支配者(≒西洋で言うところの皇帝:世俗権力)

 

 

イスラム国家

メッカを征服してからわずか2年でムハンマドは死んでしまいます。
ムハンマド没後632年〜661年まではその後継者=カリフが主権を握ることになり、この30年間を「正統カリフ時代」と言います。

30年間に合計で4人の正統カリフがイスラム国を率いました。
632-634年:アブー・バクル
634-644年:ウマル
644-656年:ウスマーン
656-661年:アリー

この時代はムハンマドが褒め称えた最も優れたムスリム達によって統治が行われたとされており、彼らの言動がムスリムの模範、またその後のイスラム法解釈の根拠にされたりもしています。

特に2代目ウマルの時代には非アラブ国家への侵略を大幅に進め、ササン朝ペルシアやビザンツ(東ローマ)帝国はシリア・パレスチナ、またエジプトまでを征服し、イスラム帝国を大幅に拡張させました。

↓濃茶:ムハンマド下領地、オレンジ:正統カリフ時代領地、黄色:ウマイヤ朝下領地

Map of expansion of Caliphate

 

3代目ウスマーンは暗殺されてしまうのですが、この暗殺に4代目アリーが関わっていたとして、ウマイヤ家のムアーウィアと言う人物が内乱を起こし、アリーも暗殺されます。
その後にムアーウィアがカリフを自称してウマイヤ朝が始まりました。
このウマイヤ朝からカリフは世襲制になり(なぜウマイヤ以前が”正統”カリフかが分かる様ですね)、反抗勢力が出てきます。

ここでできたのがイスラム世界の分裂です。
4代目アリーを支持していた派閥が
シーア派
(シーア派はムハンマドが生前にアリーを後継者として指名した事を示唆する伝承を基に、そもそも初代カリフはアリーであるべきだったと主張)

ウマイヤ朝を支持した派閥が
スンナ派」
(シーア派が初代〜3代目カリフを簒奪者として断罪するのに対して、そうではない大多数がスンナ派)

ウマイヤ朝下でも非アラブ国を次々と占領し領土の拡大は精力的にされていきましたが、同じイスラム教内でのアラブ人と非アラブ人の税率の違いが原因となり反乱が勃発します。

この反乱分子をまとめ上げ、ウマイヤ朝を倒したアブー・アルアッバースが樹立したのが次なるアッバーズ朝です。

 

このアッバーズ朝ではアラブ人と非アラブ人の差別はなくなり、国の役職者にも非アラブ人が増えてくるに従い本当の意味での(アラブ帝国から人種問わずムスリムは平等な→)イスラム帝国になりました。

2代目アッバーズ・カリフの時代には首都をバグダードへ移し、8世紀後半バグダードは人口150万人だったと言われるほどの超巨大都市(当時100万人越えの都市は中国 長安とバグダードくらい)でしたので、アッバーズ朝もこの時に最盛期を迎えます。

 

アッバーズ朝初期までは1つのイスラム共同体として最大規模を誇り、バグダードのカリフ(アッバーズ朝カリフ)がムハンマドの後継者としてイスラム世界を統治できていました。

しかし9世紀ごろからそれぞれの地域で自立性を主張するようになり、イスラム世界の分裂が始まりました。

 

10世紀イスラム世界の分裂

10世紀に入ると後ウマイヤ朝ファーティマ朝の長がカリフを名乗るようになり(三カリフ時代)、946年にはブワイフ朝がバグダードを占拠しました。

ムハンマドの後継者でありムスリム世界の最高指導者として、正統カリフ時代・ウマイヤ朝・アッバース朝全盛期までは絶対の権威を持っていた「カリフ」を他国の支配者複数人が名乗り出し、更には元来(アッバース朝)カリフの掌握していた土地の実権が他国家(ブワイフ朝)に奪われるという状況下で、カリフの持っていた権威は失われていくことになります…

 

11世紀の半ばになるとセルジューク朝が台頭してきます。
そしてブワイフ朝に脅かされるアッバーズ朝カリフを助け出すという名目の下、1055年にバグダードを陥落します。

この返礼としてカリフは「スルタン(≒西洋でいう皇帝)」の称号を新たにつくり、セルジューク朝の長トゥグリル・ベグへ与えます。
これによって政教一致だったイスラム世界において西欧さながらの「カリフとスルタン(教皇と皇帝)」という一種の権力分布の見方が可能にもなりました。

 

セルジューク朝は侵略において1071年マンジケルトの戦いで勝利することでビザンツ(東ローマ)帝国の領地だった小アジア(アナトリア)の一部を征服します。
これがきっかけとなり難攻不落の千年帝国としてビザンツ(東ローマ)帝国の地位は落ち、以降小アジアへのイスラム勢力の侵入が顕著となり、これに焦ったビザンツ(東ローマ)皇帝が西に援助を求めたのがきっかけで十字軍につながったと言われています。

 

このセルジューク朝も後にこの小アジアの地に地方政権としてルーム・セルジューク朝を、シリアにはシリア・セルジューク朝、またこのシリア・セルジューク内でも更にアレッポとダマスカスを基点とした2朝に分裂するなどという様に内部分裂を生じさせていきます。

 

 

…と、この辺りまでが西洋からの十字軍侵攻までのイスラム世界の変容になります。

13世紀以降はモンゴルからチンギス・ハン帝国の分派勢力の大侵攻があり、一方ではビザンツ(東ローマ)帝国を打ち負かしキリスト教勢力を追い出す形でイスラムの一大帝国としてオスマン帝国が生まれるなど、また世界は変わっていきます。。。が、それはまた。

 

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