はじめに
今回は第一次十字軍の後、フランクの占領からイスラム世界はどのようにして領土の回復をしていったのか、3名のヒーローの軌跡を追いながらご紹介したいと思います。
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イスラムから見た十字軍 前半【被侵略編】
12世紀、時は4国の十字軍国家が設立された第一次十字軍から少し経ち、フランク第二世代。
ザンギー
1人目はイスラムのジハード(反撃)の幕開けを行なった人物:ザンギー
当時、長らく失っていたカリフの実権を取り戻そうと(カリフの実権失墜についての詳細はこちら)アッバーズ朝カリフ:アル・ムスタルシドがセルジューク朝スルタン:マフムード2世に対して反乱を起こします。
ペルシア湾の良港バスクの司令官だったザンギーは、この反乱でマフムード2世を守り戦い、カリフ軍を破った功績でモースルとアレッポという都市を与えられ、ここから彼の国盗り物語は始まります。
特徴
戦国時代とも言える当時は、自分の利の為ならばフランクとでも手を組み、仲間内でも裏切りと内紛に走りがちな風潮が強かったようです。
ザンギーも他の武将同様によく酒に溺れ、残忍で厚顔無恥な側面もあったようですが、他の軍隊とは異なり彼の側近は政治経験豊かな顧問で固められ、軍紀は厳正で他地域で何が起こっているかの情報網にも事欠かず、自分を律することにも厳しかったようです。
また、大衆から見た際の“正統性の担保”(戦略結婚による血統の確保、土地の所有権を証明する公文書をカリフから取得する等)に関心を払う国家感覚も持ち合わせていたようです。
マフムード2世の死去後、またもカリフは反乱を起こします。
これに対戦していたザンギーですが、劣勢にて危うく殺されかけたところをアイユーブという戦地周辺の町の要塞指揮官だった男に助けられ逃がされます。
(この時にできたザンギーの恩義が、後にアイユーブの息子サラディンをイスラム世界の帝王へと導きます)
エデッサ奪還
その後ザンギーはモースルとアレッポに加え中部シリア全域を支配下にしていき、
1144年、約四半世紀に亘って十字軍国家として占領されていたエデッサを奪還します。
(この際フランク以外の住民は解放され、フランクのみが捕虜として囚人化または処刑される)
初の十字軍国家からの勝利はアラブ世界を熱狂させ、このエデッサの奪還が十字軍国家に対するイスラムの反撃(ジハード)の始まりになりました。
第二次十字軍
1147年、ザンギーにエデッサを奪われた事で第二次十字軍が決行され、フランク軍はシリアの首都:ダマスカスをターゲットに侵攻しました。
(エデッサでもなく当時十字軍国家エルサレム王国と唯一同盟のあったダマスカスが標的になった事はイスラム側からしても意外でしたが、選定理由としては今回の十字軍の成果として面目を立たせられる条件はダマスカスほどの威信のある大都市の占領以外は無いと、当時の十字軍を指導したフランクの国王達が判断したのではないかと言われています)
しかし、第一次十字軍とは比較にならないほど第二次の軍はもろく、ダマスカスを包囲するも対ムスリム国家群との交戦に4日ともたずに敗走することになります。
ダマスカス包囲網
エデッサ奪還から2年後の1146年、ザンギーはお酒を飲んで寝ていたところをフランクの奴隷に殺されるという不慮の最期を遂げます。
ヌールッディーン
ザンギーの後、このフランクへの対抗勢力を引き継いだのが彼の次男:ヌールッディーン
特徴
父同様に厳正で勇猛、正統性の担保を持つ事を重要視する国家感覚を備えながら、逆に父の欠点は持たず、信仰心厚く謙虚で約束を守る事で人々の信頼を獲得していました。
自軍にも禁酒を徹底させ、贅沢な服を捨てての生活など、彼の厳しい宗教的な態度は他諸侯達の気を参らせるほどだったと言われています。
ヌールッディーンの最たる特徴は、人の心理・世論の果たす役割を弁えていた事で、住民に親近感や好印象を与える事に非常に気を配っています。
12世紀のこの時代に宣伝機関を設立し、イメージ戦略にて世衆の支持を勝ち取っていきました。
例えば、「彼の領地では税が撤廃された」と絶えず強調し、自分の領地を広める事しか頭にない他アラブ諸侯とは違い“自分はイスラム世界のために対フランクでジハードを行う”と印象付ける事を常にしていたといいます。
このように共感を得る事、自分は侵略者ではなく味方である事を住民・聖職者・武人各方面へ徹底的に宣伝、彼の下に入る事への安心感とメリットを擦り込んでいく事で、他陣営内部に共謀者の一群を組織する事を策としていました。
・1149年には十字軍国家アンティオキア公国の領土東半分を奪還
・1154年にはシリア首都 ダマスカスを武力ではなく得意の宣伝工作から無血開城を果たすという快挙を遂げます。
(ヌールッディーン軍が到着するとダマスカスの君主が知らぬ間に住民達が城壁内に招き入れ、抵抗にもあうことなく兵士・住民の歓呼で受け入れられたと言われています)
こうして今まで氏族による領土争いの酷かったシリアが、十字軍以降初めてヌールッディーンによって一つの国としてまとめられ、この統治を持ってやっとアラブ世界はフランクに対抗できる力を持てたと言えます。
ザンギーを助けたアイユーブが繋いだ不思議な縁
この時ヌールッディーンに仕えていた“シリアのライオン”の異名で恐れられた武将シールクーフは、ザンギーを以前助けたアイユーブの弟です。彼とアイユーブはザンギーの時代に元々いたセルジューク朝を追われ、アイユーブの恩をつてにザンギーの下に仕えるようになりました。
ザンギーは信頼するアイユーブにバールベックという町の統治を任せていましたが、ザンギー没後、この町はブーリー朝(シリア・セルジューク朝下だったダマスカスが後に独立政権化したもの)占領下となってしまったため、シールクーフはヌールッディーンの下、アイユーブはブーリー朝下(ダマスカス)に身を置いていました。
イナブの戦いでシールクーフがアンティオキア公レーモンを討ち取り、
ダマスカス無血開城時はダマスカス内にいたアイユーブがヌールッディーンの宣伝工作においてダマスカス内部に王への反感とヌールッディーンへの共感を植え付け共謀者組織を作り上げるという大役をこなし、貢献しています。
こうして兄弟が得た信頼を基に、アイユーブの息子サラディンはヌールッディーンに目をかけられ育ち、後にイスラム世界を統治する帝王の誕生へと繋がりました。
フランクの悪名:ルノー・ド・シャティヨン
イナブの戦いでシールクーフがレイモン公を倒し、君主を失ったアンティオキア公国の未亡人と結婚することでアンティオキア公となったルノー・ド・シャティヨン
彼は戦略結婚を繰り返し地位を手に入れ、第一次十字軍を彷彿とさせる様な略奪・虐殺・度重なる裏切り等の横暴な手法によって、この時代アラブにおけるフランクの悪行の象徴となった男でした。
ビザンツ帝国からもイスラム諸国からも忌み嫌われていた彼は、繰り返す略奪作戦の途中、ヌールッディーンに捕らえられ15年間幽閉されます。
多額の身代金で解放されたルノーは、今度はテンプル騎士団長の娘との結婚によりその所領のカラク城とエルサレム軍の指揮官の地位を獲得し、次なるイスラム帝王の前に姿を現すことになります。。。(続
サラディン
1137〜8年、アイユーブの子としてその後のイスラム世界を統一する帝王、サラディンは産まれます。
8年間バグダードで初等教育を受け、14歳で叔父シールクーフを頼ってヌールッディーン に仕えます。
ヌールッディーンとシールクーフに溺愛され、終始ヌールッディーンと行動を共にし、この時期に経験した幾多もの戦いの中で武将に必要な素養をヌールッディーン・シールクーフから学び取って成長していきました。
エジプトの宰相になる
1163年、ヌールッディーン のもとへエジプトのファーティマ朝の政争に敗れ宰相職を追われたシャーワルという男が援軍要請を求めて来ました。
これをヌールッディーンが承諾した結果、1164年シールクーフに引っ張られる形で(本人は嫌がっていた様でしたが)サラディンも26歳にして第一回エジプト遠征に同行します。
シールクーフの傑出した戦略によりシャワールの復職を成功させるも裏切られ、フランク軍を呼ばれてエジプトを追い出されます。
これに激怒したシールクーフのリベンジ戦なるエジプト遠征が1167年に始まります。
エジプト・フランク同盟軍に一度は勝利するも、駐留したアレクサンドリアでシールクーフ不在時に奇襲をかけられ、留守を任されていたサラディンはここで3ヶ月防衛戦を耐え切り、フランク軍との交渉の末、和議を結び帰国します。
この翌年、今度はフランク軍のエジプト侵攻が実施され、シャワールの手には負えなくなります。
ファーティマ朝カリフがヌールッディーンに援護を要請した事により3回目のエジプト遠征が決定しますが、昨年のアレクサンドリアの苦難を忘れられていないサラディンは「一番乗り気でなかったのはわたしであり、まるで死にに行くかのような気持ちだ」と同行を拒否しましたが、またシールクーフに引っ張られる形でエジプトへ向かいます。
ヌールッディーン軍の後援を聞いたフランク軍はあっけなく撤退し、エジプトの解放に成功、シャワールを処刑し、ファーティマ朝カリフにシールクーフは宰相の位を授けられます。
しかし2ヶ月後、飽食による肥満が原因でシールクーフが死去、連れて来ていたシリア軍の投票により1169年、30歳でサラディンがファーティマ朝宰相に担ぎ上げられます。
アイユーブ朝設立
この時、目にかけていた幕僚2人が突如エジプトの長になるという事態に、ヌールッディーンは困惑します。
サラディンはヌールッディーンの招きにも応じず、手紙への返答もそこそこに避け続けました。
当時、ヌールッディーン属するアッバーズ朝カリフはスンナ派、一方ファーティマ朝カリフはシーア派だったため、サラディンは住民の反感を買わぬよう時間をかけて準備をし、ファーティマ朝カリフ:アル・アーディドの病死と共にシーア派ファーティマ朝の廃絶を宣言、ファーティマ朝に代わる自らの父の名をつけたアイユーブ朝はスンナ派政権としてヌールッディーンに帰順していることを表明しました。
その後も緊張関係を取り繕うように貨幣にヌールッディーンの名を刻み鋳造したり、新領地の獲得についても「ヌールッディーン王の名において」と前書きをつけたりと、直接対面を避けたご機嫌とりに努めていましたが、1174年、扁桃腺の化膿によりヌールッディーン が死去します。
一幕僚が元々は敵対していた一大王国の君主になるという事件で関係の悪化があったものの、サラディンはヌールッディーンのずば抜けた偉大さから強い影響を受けて成長し、彼のふさわしい後継者であろうとしました。
彼同様に贅沢を軽蔑し、イスラムに敬虔で、同じ目標を休むことなく追求します。それはすなわちアラブ世界の統一、そしてフランクから被占領地、特に聖地エルサレム回復の為、宣伝機関を駆使して精神的にも軍事的にもムスリムを動員することでした。
その頃フランク側では
シリアとエジプトがサラディンによって統一され、強力なアラブ国家が出来上がりつつある中、フランク側ではサラディンとの和解に好意的なトリポリ伯レイモン派と、アンティオキア公ルノー・ド・シャティヨン率いる過激派で対立が発生していました。
エルサレム王の摂政にレイモンがなると、彼はサラディンとの善隣関係を樹立させる為、4年間の休戦を要請します。
当時フランクとムスリムの住民達は、税収などのシステムを利用し、戦う人は戦争に専念しているが、住民は平和に暮らせているという状態を築けていました。この共存関係を急いで終わせる必要もないと考えていたサラディンもこの休戦契約に同意します。
しかし1年後、エルサレム王の死去によってレイモンは摂政職を実質失脚、次いでエルサレム王になったギー・ド・リュジャンはルノーの操り人形でした。
ルノー再登場
1180年、物人の自由往来を保証する協定がダマスカスとエルサレムの間で結ばれたにも関わらず、アラブ商人のキャラバンがルノーに襲撃され略奪・虐殺される事件が何度か起こりました。またその後も聖地メッカの襲撃を試みたり、サラディンの掌握する紅海での貿易利益に目を付け、軍事的な進出を図るなど、協定を無視した行為を続けます。
協定を無視するルノーの行為に対しサラディンは抗議しましたが、ギー王はこれに対応する能力を持ち合わせていませんでした。
休戦は敗れ、サラディンは卑怯にも約束をないがしろにしたフランクへのジハードをアラブ諸侯へ宣告、レイモンの反対も虚しく、ここにアラブ・イスラム世界とフランクの全面戦争が始まることになりました。
エルサレム奪還
1187年、ヒッティーンの戦いで両軍はぶつかり、サラディンが勝利します。
この際、サラディンはギー王とルノーを連れて来させ、ルノーの悪行の数々に言及、何度も誓約を破ったこと、守る気もない協定に署名したことを責めたといいます。それに対する「王とはいつの時代もそうするものだ」というルノーの返答を聞き、その後ルノーを自らの手で殺し、ギー王に関しては紳士的な対応の上釈放しました。
その後間をおかず数日中に各フランクの拠点を次々と奪還し、
1187年10月エルサレムに侵攻、念願の聖地回復を果たします。
尚、この際異教徒への略奪も虐殺もサラディンは許さず、捕虜は釈放され、むしろ未亡人や孤児には援助を与えた上での解放がなされました。
第三次十字軍
一方で、サラディンのこうした寛大な処置は軍事上・政治上の過失にも繋がっていました。
サラディンはフランクの町を奪還する度に、フランク兵達へティールという町への亡命を許していました。
そしてこの町が最終的にフランクにとって最後の対抗拠点として育つことになります。
サラディンによるエルサレム回復後、西はこれを受けて第三次十字軍の派遣を始めます。
次々とティールの港を介してフランク軍が上陸し、1191年アッカが十字軍によって陥落します。その後1年間に亘り攻防戦が続くものの、1192年9月エルサレムはイスラムの統治に置くという条件の休戦協定を結び、第三次十字軍は撤退。
これにてサラディンの長年の西洋との対決は勝者としてその幕を下ろしました。
フランクはいくつかの都市の管理権を取り戻したもののそれらは以前の十字軍国家と言えるようなものではなく、入植地といった位置付けのものとなり、イスラムはエルサレム回復と西洋の侵略の歴史から抜け出すことができたと言えるでしょう。
翌年1193年、サラディは病で死去します。
特徴
幼少期から君主ヌールッディーン、叔父シークルーフ、父アイユーブなどの卓越した能力・姿勢・言行を見て成長する環境にあり、30歳という若さで一大王国の君主になってしまいました。
エジプト遠征の際のシールクーフとのやり取りでも分かるように、詩や学問を好んだサラディンは元々好戦的な性格ではなく、一方でシールクーフとヌールッディーンはそんな冷静沈着なサラディンを非常に評価し頼りにしていたようでした。
エルサレムの奪還も果たし、帝王としての地位を確固たるものとした後にも、彼の奴隷や異教徒に対してさえ威張ることなく人として同列で対応する姿や、地位や金に全く興味を示さず気前の良すぎる性格を象徴するエピソードは沢山残っています。
略奪・裏切り・虐殺が当たり前(むしろ慣行レベル)だったこの戦国の時にして、リスクを背負ってでもその人道的に見える寛大さを保たたせたものは、彼の見てきたヌールッディーン達偉人の姿と、それ以上に絶大なイスラムへの信仰(その規則に準じようとする姿勢)が成させた偉業ではないかと思われます。
野心なく地位を得、イスラムに不利になるほどの寛容な処置をフランクにも行うサラディンへの反感も同時代には少なからずあったようでしたが、固い信念に基づく彼の生き様は後世においては東洋のみならず、イスラムに憎悪の念を抱いていた西洋でさえもアラビアン騎士の体現者として人々に愛されることになりました。
その後も十字軍とイスラム世界の領土の回復合戦は続き、1250年にはアイユーブ朝が滅亡しマルムーク朝が誕生、新たなモンゴルからの大侵略とも戦いつつ、1291年に当時フランク軍唯一の占領地となっていたアッカの奪還をもって、十字軍とイスラム世界の戦いは200年間の歴史を一旦閉じます。