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イスラムから見た十字軍 前半【被侵略編】

  • 2020年5月4日
  • 2020年5月25日
  • 歴史

 

はじめに

十字軍についての記事を先日書きましたが、今回は侵略を受けた側からの十字軍についてをご紹介したいと思います。

西欧で1095年の教皇ウルバヌス2世の提唱により十字軍決行が決まってから〜第一次十字軍の成功までの期間、イスラム側では何が見えていたのでしょうか。

これを知る事は現代まで続く宗教戦争の源泉に触れる事に近く、宗教の歴史と現代の社会が切っても切れない因果関係にある事が良く理解でいるのではないかと思います。

どうぞ他の西洋側から書かれた十字軍についての説明と比較してお考えいただければ有益ではないかと思います。

(今回の内容に関してはレバノンのジャーナリスト:アミン・マアフールの「アラブが見た十字軍」(牟田口義郎・新川雅子訳)をベースにその他諸資料を参考にさせていただいています)

 

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十字軍とは?

 

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イスラムから見た十字軍 後半【反撃編】

 

 

系列 何が起こっていた?

1095年、ウルバヌス2世の「聖地回復」提唱から西欧では騎士のみならず民衆の間にも聖地回復、またヨーロッパを出て新天地での生活を夢見る人たちからなる民衆十字軍が結成され、我先にと聖地エルサレムに旅立ったのでしたね。

それを踏まえた上で、ではイスラム側ではこの時期何が起こっていたのか、以下の時系列に沿って見ていきたいと思います。

 

 

始まり:ニカイアでの民衆十字軍

当時イスラム世界情勢はこちらの記事「十字軍までの 初期イスラム世界」で最後に紹介したセルジューク朝の時代

 

11世紀、中国辺境からヨーロッパまでセルジュークの名は知れ渡っていました。
長髪を束ねた遊牧騎兵を率いて中央アジアからやってきたセルジューク族(トルコ民族)は数年でアフガニスタンから地中海に渡る全域を侵略しました。


マンジケルトの戦いでビザンツ皇帝を捕虜にしたアルプ・アルスラン(左)

カリフ(イスラム教の宗教的権威、≒教皇)は既に権力を失いセルジュークの操り人形と化しており、マンジケルトの戦い以降ビザンツ帝国ももはや牙を抜かかけていました。

このセルジューク朝の快進撃に焦ったビザンツ皇帝アレクシオス1世が西のローマ教皇に傭兵を要請したのが十字軍の発端でしたね。

統一されてまとまって見えるセルジューク帝国(上の地図赤部)ですが、実際は各州がほとんど独立しており、支配者一族も親族同士での領地・跡目相続闘争でひどく荒れていました。

当時最初に十字軍侵攻の的となったルーム・セルジュークの領土も拡大して見てみるとこの様な感じ↓
Seliuk Sultanate of Rumがルーム・セルジューク、首都はNicaea(ニカイア)

このオレンジ色や黄色の領土に関してはセルジューク一族以外の民族に支配されてしまっている土地です。

 

1096年当時16歳だったルーム・セルジューク朝2代目:クルチ・アルスラーンは海を渡ってくる大勢の民衆十字軍の情報をビザンツ帝国で傭兵として働いていた同胞から聞きます。(当時は東西共に傭兵として民族が入り混ざって働いているのは当たり前でした)

この軍は数百人の騎士や歩兵に加え数千人のボロ着の女・子供・老人からなっており、全員が背中に十字架の形の布を縫い付けている異様な大群だったといいます。

はじめは何の為、どこに向かって来ているのかさえ分かりませんでしたが、道すがらありとあらゆる村で略奪と女子ども問わずの虐殺を行っているという事だけは聞こえてきました。

これが初めてイスラム世界で確認された十字軍、いわゆる民衆十字軍でした。

当時「十字軍」という呼称は使われず、イスラム世界では西洋人一般を示す「フランク」と呼ばれることが多かったそうです。

この民衆十字軍に関しては戦い方さえもろくに知らない様子で、進行途中クルチ・アルスラーンによって撃退されています。

 

上の地図オレンジ色の領域を当時支配していたのがダニシュメンド朝で、ルーム・セルジューク朝初代の死後その混乱に乗っかる形で独立を果たした氏族の1つでした。

民衆十字軍から1年後、クルチ・アルスラーンは領土奪還をかけダニシュメンドと戦っていたところに新たな十字軍の到着を知らされます。

今度は民衆のそれとは違い、正真正銘の騎士十字軍とビザンツ帝国の兵隊からなる軍隊で、首都ニカイアは陥落します。


投石機にムスリムの首を入れてニカイア市内に投げ入れる十字軍

 

これによってエーゲ海沿岸と小アジア(現在のトルコ)西部はセルジュークの手から離れ再びビザンツ帝国に戻ることになります。

クルチ・アルスラーンはセルジューク全体に内紛している場合ではないとトルコ人一体となった「ジハード:聖戦」を呼びかけ、ダニシュメンドと同盟でフランクの進行阻止を試みますが敗北します。

 

アンティオキア陥落

ニカイアでの敗北が広まり、セルジューク中がフランクの動向に注目する中、次にフランクが現れたのはシリア最大の都市:アンティオキア でした。1097年10月街はフランクに包囲され攻撃が始まります。


SiegeofAntioch

 

内部紛争が酷かったセルジューク朝ではアンティオキアからの幾度にもなる支援要請にも関わらず、街が耐え続けた9ヶ月の間他の都市から援軍が到着することはありませんでした。
住民たちは切断されたムスリムの生首が投石機で打ち込まれてくる中、援軍を信じ耐え続けたそうです。

この持久戦の結末は、1人の街人の裏切りで敵を城壁内へ侵入させたことで決まりました。
住民は虐殺され1098年6月に街は陥落しました。

 

エデッサ陥落

アンティオキア が持久戦の最中、アンティオキアより北東に位置するエデッサでも十字軍国家が1つできていました。

十字軍は基本的に西欧各国の貴族・諸侯からなる軍隊でしたので、中には自分の領土が東方の地に欲しくて参加した者も少なくありませんでした。フランス貴族のボードワンもその一人で、ニカイア通過後、自軍を率いて十字軍本隊とは離れます。

エデッサは元々ビザンツ帝国に属していたキリスト教徒の都市でしたが、当時はイスラム勢力下に支配されていました。

そこでエデッサの老候ソロスはエデッサに来たボードワンに「トルコ人から町を守ってくれ」と持ちかけます。

ボードワンは自分を養子とし正統な後継者として迎えるならば受けよう、と交渉し、高齢で子どもがいなかったソロスはこれを承諾します。

数日後、ソロス夫婦は息子の扇動による群衆のリンチにより殺され、1098年2月エデッサは易々とフランクの手に堕ちたのでした。


ボードワンのエデッサ入城

 

 

マアッラの悲劇

アンティオキアから南西へ行ったところに位置するマアッラは1098年11月にフランクに囲まれます。

マアッラは軍隊を持たず、民兵組織があるだけの町でしたので、戦う術も知らない住民達は必死の抵抗を2週間見せるも、最終的には先日アンティオキアを手に入れたばかりのフランク部将ボエモンと交渉します。
そこで「戦わずして退去するなら命は助けよう」と約束をもらったのですが…
明け方からフランク軍の大虐殺にあうことになりました。

マアッラといえば、兵士らが市民の死体を食べる人肉食を行なった事で有名です。

ここでの殺戮の酷さはフランク側の記録にも「我が同志は大人を鍋で煮た上に、子ども達を串刺しにしてむさぼりくらった」と告白されており、翌年ある司令官の法王宛ての手紙には「我が軍は飢餓によって過酷な必要性に迫られアラビア人の死肉で腹を満たした」と供述されています。

 

フランクに通ずる者なら誰でも、彼らをケダモノとみなす。
勇気と戦う熱意には優れているが、それ以外には何もない。動物が力と攻撃性に優れているのと同様である。

隣接する町シャイザルに生まれたウサーマ・イブン・ムンギス

 

この惨事は人々の心に西洋人=人食い人種の歴史的な印象を刻みつけました。

 

この事件は一挙にイスラム世界に伝達されます。
周辺シリア諸侯は自分達の領土への被害回避の為、自分達の聖地でもあるエルサレムを奪いに行くというフランク一行に物品からエルサレムまでの案内役提供まで行い始めました。

進行の途中、ヒスヌ・アル=アクラード(後に聖ヨハネ騎士団の城として有名になるクラック・デ・シュヴァリエ)を総司令部としてフランクが滞在した際には、近隣全ての町・村の代表者が貢物を持ってきたと言います。


Krak des Chevaliers

この地方のことわざには「敵の腕をくじけないなら、まずその腕に接吻し、神にくじいてもらうよう祈れ」があるそうです。

 

 

エルサレムの陥落

第一次十字軍の侵攻はセルジューク朝のその広い領土内にて行われていましたが、それを当初同じくイスラム世界の一員ながら喜ばしく見ていたのがエジプトのファーティマ朝でした。

セルジューク朝の領地拡大に伴い、ファーティマ朝はそれまで100年間所有していたダマスカスとエルサレムを奪われており、且ついつもイスラム世界の中で問題になる2大派閥、シーア派にファーティマ朝、スンナ派にセルジューク朝は属していたのでますます両者は因縁の相手だったのです。

セルジュークから領土を取り返す、この1点において利害が一致していたビザンツ帝国とファーティマ朝は予てより十字軍の情報を共有していました。
そしてアンティオキア侵攻の直前にファーティマ朝は十字軍に対して領土分割(北シリアはフランクに、南シリアはファーティマ朝に)を提案しました。
しかしフランクからの返答はなく、ファーティマ朝は先手を打ち先にエルサレムを制圧します。

そもそも十字軍はビザンツ帝国を救う為(セルジュークから領土を奪還する為)に来ていると思っていたファティーマ朝はこの時にビザンツ皇帝からの手紙で衝撃の事実を伝えられます。

その内容は「十字軍は約束を破りビザンツ帝国に領土を返還せず、自分達の国を作る為にこの地を占領しに来ている。彼らは何としてでもエルサレムを占領しようとするだろうし、自分にもはや彼らをどうにかする力はない。」と、既にエルサレムを占領したファーティマ朝と十字軍の戦争は避けられないものとする宣告でした。

ビザンツ皇帝はファティーマ朝に対して団結して一緒に十字軍を追い払おう、と(自分が呼んだにも関わらず)協力の姿勢を見せるものの実際に皇帝にできたことといえば十字軍のエルサレム侵攻を少し遅らせることくらいでした。

 

エルサレム攻囲戦

そしてついに1099年6月、イスラム世界と西洋の間に以後900年以上に亘って続く敵対関係の発端となったエルサレムの略奪が開始されました。

約1ヶ月を費やし、十字軍はエルサレムの陥落に成功します。

しかしそれ以上に問題になったのは、今までの経緯を見ても想像に難くないようにその残虐行為の数々でした。

今まで通りの大殺戮が行われ、街中が死体で埋め尽くされたと言われています。

口では崇めていると言いながら聖地を壊しまくり、今までどんな征服者も尊重してきた各宗教の伝統を踏みにじり、同胞である東方正教の司祭をも拷問にかけ聖遺品はじめ金になるもの全てを奪っていきました。

 

このエルサレム王国を含め計4つの十字軍国家を設立し、第一次十字軍は成功となりました。


12世紀十字軍国家地図

 

しかし、その後もイスラム各国との略奪戦争は続き、最終的には1187年アユーブ朝のサラディンにエルサレムは奪還され、1291年には全ての十字軍国家が終わりを迎えます。

 

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十字軍として成功したのはこの第一回が唯一ということになりました。

西洋にとっては東洋の先進的な知識・技術を吸収する機会になったものの、同時に取り返しのつかない遺恨を歴史に刻んでしまった十字軍。

イスラムにとってはどうでしょうか。果たしてここから収穫できたものがあるのか、過去の事にできるものなのか、自分達の祖先の犠牲を何に昇華できるのでしょうか。

彼ら側からの視点に立たねば、立っても計り知れないものが彼らの子孫の中にもきっと残っているのだろうと思えます。

 

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