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マルタの歴史

 

 

代(紀元前)

紀元前5000年頃(今から7000年程前)現在のシチリア島からマルタ島へ、船を使い人が移り住んだと言われています。

当時マルタには洞窟が多く在ったようで、そこを生活の拠点として農耕や畜産を行い生活していました。

その当時の生活跡がマルタ東部の町ビルゼブジャ近郊に位置するアール・ダラム洞窟に残っています。


Ghar Dalam Cave

 

紀元前3500年頃、石を使った技術が発達し、それによって様々な神殿が建てられていきます。

ゴゾ島に残る巨石神殿のジュガンディーヤ神殿はこの頃につくられた人類最古の建築物と言われています(エジプトのピラミッドやイギリスのストーンヘンジより1000年も古いものです)。

 


Ġgantija

 

その他にもゴゾ島やマルタ島の各所に巨大な石を使った神殿が建てられ、今でも30ほど残っています。高さ6m、重量数tにも及ぶこれらの巨大な石をどのように動かし、神殿をつくったのかは今尚謎のままです。


Tarxien

 

面白い説としては、マルタはあの幻の島アトランティスの一部で、高い技術力でつくられた謎の多い巨石神殿はアトランティス文明に由来するのではというものもあります。


大西洋の中央にアトランティスが描かれたアタナシウス・キルヒャーによる地図

 

紀元前2000年頃、200年~500年程の間は人が生活していた痕跡が確認されなくなり、無人島になっていたといわれています。原因は特定されておらず、開拓し尽くした結果不毛な土地になったからとも言われています。

その後新たにマルタに移住してきた人たちによって青銅器の文明が開かれます。

紀元前1200年頃、現在のレバノン辺りにあった地域フェニキアから、ガラスや織物などを持ってフェニキア人がマルタに移住し始めます。

紀元前814年(諸説あり)頃にこのフェニキア人が現在のチュニジアで地中海南部を支配する超大国カルタゴを建国します。北アフリカ・シチリア島・マルタはこのカタルゴの属州になります。

その後紀元前200年頃イタリアを本拠地に勢力を増してきた地中海北側の覇者ローマ帝国
vs
地中海南側の覇者カタルゴ

で地中海の覇権を争う戦いが起こり、これが有名な「ポエニ戦争」(紀元前264年~紀元前146年)です。
結果カルタゴは敗北し、マルタはローマの支配下に置かれることになります。

 

ローマ人は現在のイムディーナ、ラバトに街をおこし、ローマの貴族住居や神殿を建て、道路の整備などをして発展させていきました。
(イムディーナは紀元前4000年より前から定住の痕跡はあり、紀元前700年頃にフェニキア人によって要塞化されています。つまりローマ人より先に主要地として認識され開拓はされていました)

マルタではローマ支配後もフェニキア人の影響が色濃く残っており、ラテン語ではなくフェニキア語(ヘブライ語に似てるらしいです)が使い続けられました。

 

現在マルタは根強いカトリック信仰国として有名ですが、
西暦60年頃、その礎を築いたのはあの使徒 聖パウロ(ヘブライ語:サウロ)。


Saint Paul By Bartolomeo Montagna

「目から鱗」の語源となっている方で、
27の書物から構成される新約聖書のうち13の書簡を書き残し、小アジア・ギリシャ・ローマ等新たな地に宣教活動を拡げた大伝道師です。

元々敬虔なユダヤ教徒だったパウロははじめキリスト教を迫害する側にいましたが、ある日「なぜ私を迫害するのか」というキリストの声を天からの光とともに聞き、3日間目が見えなくなりました。

そこにイエスのお告げによって遣わされたアナニアというキリスト教徒が現れ、パウロの上に手を置き祈ると、目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになりました。

これをきっかけにキリスト教へ回心、宣教活動を精力的に行い、各地にキリスト教会を建てたことでユダヤ教徒に捕らえられ、ローマ(当時ユダヤ教)に政治的反逆者として護送される途中、船が難破し、漂流した先がマルタでした。

マルタでのパウロ伝説の有名なものは、
冬に漂流したパウロたちに島の住民は言葉は通じぬが(マルタ人はフェニキア語、パウロ一行はラテン語・ギリシャ語・ヘブライ語)親切に火を焚いて寒さをしのぐ助けを施してくれました。

その火にパウロがくべた小枝の中から毒ヘビが出てきて腕に噛み付きました。

それを見ていたマルタの住民たちは今にもその腕が腫れ上がるか死んでしまうだろうと思っていたのにパウロは顔色を変えず何の害も受けなかったことに驚き、「この人は神様では」と言い出したというものがあります。


Saint Paul in Malta

その後マルタのローマ人首長だったポプリオ〔プブリウス(新共同訳)〕がパウロを自宅に招待します。

この時ひどい熱でうなされていた彼の父親をパウロが治したことでポプリオはキリスト教に改宗、マルタ初の司教になりました。

古都イムディーナに建つ聖パウロ大聖堂はかつてのポプリオの家であった場所に建っていると言われています。


Mdina Metropolitankathedrale St. Paul

蛇にかまれても害を受けず、ポプリオの父を癒したというパウロの話は、島で知れ渡り、他の病人たちもパウロを尋ねるようになります。

パウロがこの滞在三ヶ月間を過ごしたのがラバトにある地下洞窟で、現在はその上に聖パウロ教会が建てられています。


Rabat-saint-paul-s-grotto

 

ここから敬虔なカトリック教国としてのマルタができていくことになります。

 

 

中世、マルタは多民族(国家)からの度重なる侵攻・支配に翻弄され、イスラム教圏とキリスト教圏の地中海覇権争奪戦の要の地として戦いに巻き込まれていき、かのマルタ騎士団ができます。

一方でアラブ人・ノルマン人の移住に伴う言語・建築物・農業技術の発達など、現在のマルタの土台ができていった時期でもありました。

 

☟以下記事をどうぞ!
中世のマルタ

 

 

1789年フランス革命の最中、ナポレオン・ボナポルトは敵国イギリスとインドの、ひいてはインドと地中海(他西欧各国)との交易を断つために、その中継地となるエジプト奪取の遠征に出ます。

その途中、物資の補給という名目でマルタに停泊、そのままマルタを侵略してしまいます。


Erfolgte Kapitulation zwischen dem General Bonaparte und den Gross Leister von Malta. Vor der Hauptstadt Walette zu Maltha, am 10 Juni 1798.

マルタ騎士団は修道会の戒律としてキリスト教徒(ナポレオン軍)への攻撃ができず、また騎士団員にはフランス出身も含まれていたため、その混乱の中で反抗の余地なくナポレオンの占領を許してしまったと言われています。

ナポレオンにより騎士団はマルタを追放されることとなり、ロシア皇帝パーヴェル1世に総長の座を譲ることでバイエルンの騎士団支部に拠点を回復させたもののこれ以降は求心力を無くしました。

1803年には総長をカトリックに戻し1834年には本部をローマに移し、軍事組織としての意味合いは失われ医療団体として現存するに至ります。

ナポレオンは滞在期間6日間で未だ上流階級と教会の2トップに支配されるマルタの各種制度(特権階級・奴隷制度の廃止、地方自治体制度や金融行政等その他国政に関わる事)に急進的な改革を行ったと言われています。

(当初ナポレオンは6日間も滞在する予定はなかったものの、イムディーナにあるシャーラ宮殿の娘クララ・シャーラに魅了され恋仲になり、一緒に過ごす時間を作る為にマルタの改革を理由にし滞在を伸ばしたとも言われています。)

しかし従来のあり方に従順だったマルタの貴族・一般市民はこれらナポレオン法を彼らが愛する教会への攻撃ないしは従来の生活様式に対する脅威とみなし反抗しました。

フランスの占領からわずか3ヶ月でマルタ人は反乱を起こし、フランスと対立します。

この際にフランスと敵対関係にあったイギリスに援助を求め、上陸したイギリス軍によってフランス軍は撤退、1802年にフランス・イギリス間で結ばれたアミアン講和条約ではマルタ島は騎士団に返還されるものと決まりましたが、1803年戦争が再開されるとともに再びイギリス保護下となり、1814年のパリ条約において名実ともに完全なイギリス領地となりました。

 

ローアー・バラッカ・ガーデンにある新古典様式の神殿は、フランス軍撤退の功績を称えて当時の海軍中将サー・アレクサンダー・ジョン・ボールのために建てられたものです。


The neo-classical temple folly found in the Lower Barrakka gardens

 

当初イギリスは騎士団のもとで育まれたマルタ人の熱心なカトリック信仰とローマ教皇庁との密接な繋がりに悩まされたようで、一時はカトリック教会の権利を剥奪するなど試みましたが上手くいかず、1831年には教会の権利を容認、その後モスタのドームが再建設され世界で3番目の規模のドームがつくられるなどマルタのカトリック信仰は現在に続くことになりました。


Mosta Dome

 

イギリス領だった面影は、
マルタ語と英語の2言語が公用語になっている事や街角で散見される古風な英国風文字・電話ボックス・郵便ポスト・朝食メニュー(イングリッシュブレックファースト)など様々なところで確認できます。

 

 

マルタがイギリスの統治下であった19世紀、
産業革命、3C政策により世界をリードしていたイギリスにとって地中海に位置するマルタが手中にあることは船の寄港を可能にし、優位性の確保に繋がっていました。

1914年、第一次世界大戦が勃発するとマルタはイギリスに従属しているため連合国側に参戦、地中海戦における連合国の補給地・負傷者回復拠点として活躍します。

(この時日本も連合国側でイギリスの要請に応え、連合国の輸送船を守る船団護衛を地中海で行っていました。約800隻の連合軍の船舶を護送し、兵員約70万人の輸送を助け、敵潜水艦の攻撃を受けて海に投げ出された連合国の兵士や看護婦ら約7000人を捨て身の救出劇を行うなど「地中海の守護神」と評価されていたそうです。魚雷攻撃を受けて大破した駆逐艦「榊」やその他日本人戦没者の遺骨/灰はマルタの英連邦軍墓地の中にある旧日本海軍戦没者墓地に埋葬されています。)


カルカーラにある日本海軍慰霊碑

 

同時期に国内ではマルタのアイデンティティ・ナショナリズムが意識されだし、自治拡大を求め大戦中にも6日間暴動が起こるなど、反英闘争が激化していました。

1919 年、マルタはイギリスの支配下にありながら内政自治を認められるようになり、1921 年、最初の議会が開かれジョセフ・ハワードが首相に選ばれました。

 

マルタ島は地中海において戦略的な立地にあったため、全ての大戦で最も激しい爆撃に晒されました。

ムッソリーニが宣戦布告をした1940年6月10日の翌日、イタリアの爆撃機はヴァレッタとその港を攻撃し、マルタは急激に第二次世界大戦に突入します。


Italian bombing of the Grand Harbor, Malta

 


Lascaris War Rooms (マルタにあったイギリス軍司令部)

 

この戦争中、イタリア・ドイツから受けた幾度となる空爆によってマルタは多大な被害を受け、戦後そのあまりに苛烈な空爆を耐え抜いたマルタ人に対しイギリス国王ジョージ6世はジョージ十字勲章を与えました。

この勲章はマルタ国旗の一部になっています。

 

マルタ国旗

 

戦後1964年には英連邦王国自治領「マルタ国」としてイギリスから独立、エリザベス2世を女王とする人的同君連合となり、さらに1974年には君主制から大統領制に移行、イギリス連邦加盟の「マルタ共和国」となりました。

 

1989年には冷戦の終結が宣言されたマルタ会談が、マーサシュロックと同じ湾に臨むビーゼブガ沖に停泊させた船の中で行われ、冷戦が終わり平和な世へと歩みだす希望を「ヤルタからマルタへ」のキャッチフレーズで世界中が知ることになりました。

 

独立後、観光業に力を入れてきたマルタは2004年にはヨーロッパ連合(EU)へ加盟。

現在の様なヨーロッパで人気の観光国としての地位を得るに至っています。

 

 

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