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中世のマルタ

 

中世

アラブの支配

395年にローマ帝国が東西に分かれると、マルタは一旦西ローマ帝国に属することになります。
この民族移動時代、多民族からの度重なる侵攻に苦しまされ、複数民族の支配下に置かれる時期を経て、西ローマ帝国滅亡後の533年に東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の支配下となりました。


ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

 

2世紀〜5世紀民族移動の図

 

 

一方600年頃 東ローマ帝国領地のアラブではイスラム教が生まれます。

イスラム教について

この勢力は年々増し、ついにこのアラブ勢力は867年にマルタにまで及ぶことになりました。
3年間の戦いの後、870年にマルタはアグラブ朝の支配下となり、多くのイスラム教徒(アラブ人)の移住がここで発生します。しかしマルタでは大きなキリスト教の迫害は起きず、このアラブ人により柑橘類や綿などの農作物を育てる農業技術がマルタにもたらされることになりました。

アグラブ朝の支配図 Aghlabids Dynasty 800 – 909 (AD)

またこの時にアラビア語をもとにしたイムディーナ、ラバト、マルサシュロックなどの今に残る様々な地名がつくられていきました。
現在使われているマルタ語(イタリア語とアラビア語をミックスしたような感じです)にアラビア語の多大な影響を見て取れるのもこの支配期の影響です。

 

ノルマン人(シチリア王国)の支配

約200年間のアラブ支配の時代を経て、
今度は第二次民族大移動の時代の最中、ノルマン人の南イタリア征服の波にマルタも飲み込まれていくことになります。
1091年当時イスラムの支配下だったシチリア・南イタリアと北アフリカの一部を征服し、シチリア王国(ノルマン朝)を築いたノルマン人のルッジェーロ2世によりマルタも征服されることになります。


Kingdom of Sicily

 

この時アラブ族と戦ったノルマン人のロジャー伯爵が赤と白の格子縞模様の旗を裂いて、半分を味方のマルタ人に与えたという話が現在のマルタ国旗の基になっているとも言われています。

(ルッジェーロ伯は他宗教の共存を認めていたためこの時点ではムスリムはマルタに残りました。)

このシチリア王国(ノルマン人王)による支配の時期、マルタはシチリアの従属国のようなポジションにおり、歴史の表舞台に出てくることはないですが、この期間にイムディーナのマルタ貴族たちは繁栄します。現在でもこの時に建てられたノルマン建築の建物をイムディーナでは見る事ができます。


イムディーナ


イムディーナの街角

 

1144年に東ローマ帝国(ビザンチン帝国)がマルタ奪還のため進行してきますが、シチリア王国はこれをマルタ住民とともに退けます。

シチリア王国のマルタ支配は1194年まで続き、この期間にマルタでのイタリア語・ラテン語の浸透が進んだようです。

 

 

中世

神聖ローマ帝国支配

この当時ヨーロッパで台頭してきたのが神聖ローマ帝国(西ローマ帝国滅亡の後、フランク国王がこれに代わってローマ皇帝に任命されたことによる)。

1194年、シチリア王国が侵略され神聖ローマ帝国のものになると同時に、マルタもその支配下に置かれます。

神聖ローマ帝国の下でマルタは南イタリアの反乱に対する3年間の流刑地として使用されていたようです。

1240-50年にはイスラム教徒たちが追放または改宗を余儀なくされ、それまで人口の8割を占めていたムスリムたちの姿がここから徐々に消えていくことになります。

 

フランスのアンジュー家支配

神聖ローマ皇帝・ドイツ王・シチリア王を兼任していたフリードリヒ2世の後任:コンラート4世が若死にし、神聖ローマ帝国が大空位時代(皇帝不在の14年間)に入った際、シチリア王位に関しては(初代〜6代にわたり神聖ローマ皇帝を輩出した)シュタウフェン家に継承されていましたが、それを良く思わないローマ教皇(当時皇帝と教皇との衝突が頻繁にあったため)がフランス王ルイ9世に働きかけ、1266年その弟アンジュー伯シャルルがシチリアへ侵攻したことによってシチリアならびマルタはフランスのアンジュー家の支配下に置かれることとなります。

 

スペインの支配

しかしアンジュー家の支配は圧政であり、1282年「シチリアの晩祷」で有名な反フランス暴動がシチリアで起きます。

シチリア市民から支援要請を受けたスペインの2大有力王家の1つアラゴン家ペドロ3世(シチリア侵攻時にシャルルによって殺された前シチリア王マンフレートの女婿)が侵攻し、アンジュー家は没落。

シチリア・マルタの支配権はスペインのアラゴン家に移ります。

シチリアの晩祷 I vespri siciliani – Michele Rapisardi

 

1283年から127年間アラゴン家支配が続き、1412年からの118年間はもう一方の有力王家カスティーリャ家にその支配権が移ります。

これはアラゴン家がカスティーリャ家に対して抱えていた借金の返済としてマルタ島を与えたのではないかと言われています。

その後アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イザベルの結婚により現在のスペインの元となる統合されたスペイン王国(カスティーリャ=アラゴン連合王国)がつくられ、マルタもこのスペイン王国下に入ります。

 

 

この当時、地中海の覇権を争っていたのはスペインを筆頭としたキリスト教勢力 vs オスマン・トルコのイスラム教勢力

それまでシチリアの従属国のような扱われ方をしてきたマルタですが、
1419年・1422年・1429年とイスラムの艦隊からの襲撃を受け、この2宗教世界間の地中海争奪戦の要の地として認識され始めます。

当時スペイン王で神聖ローマ皇帝でもあったカール5世は、十字軍としてアラビア・ギリシャからシチリアへ撤退していた聖ヨハネ騎士団(ロドス騎士団)にマルタを与えることにします。
屈強な騎士団の駐在によりイスラム勢の地中海侵攻に歯止めをかけるためと言われています。

 

マルタ騎士団の支配(イスラム勢との戦い)

☟騎士団入島後のマルタの歴史について、以下記事の中段よりどうぞ!☟

マルタ騎士団とその軌跡

 

 

中世

1517年ルターによって始まり西欧諸国を巻き込んで17世紀中盤まで続いた宗教改革の波により、騎士団への支援にも陰りが見えはじめ、騎士団は徐々に弱体化していきます。

 

 

☟マルタの歴史 全体像は以下記事よりどうぞ☟
マルタの歴史

 

 

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