十字軍の発足
十字軍を一言で説明すると、「1095年クレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世によって提唱され、1096年第1回〜1270年第8回までの約200年間に亘る聖地奪還運動と称されるキリスト教の異教徒へ向けての軍事活動」となります。
発端となったのはビザンツ帝国(東ローマ帝国)アレクシオス1世がイスラム王朝セルジューク朝による侵攻を受け、西に援護を要請したことです。
それを受け1095年に開かれたクレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還する為として「聖地回復」という概念を提唱し、十字軍の発足に至りました。
当時キリスト教でも巡礼が盛んに行われており、その目的地は聖地エルサレムであったので、その地がイスラム教徒(セルジューク朝)によって支配されたことに対する「聖地回復」という宗教目的を掲げたというのが始まりです。
(しかし実際にはセルジューク朝による巡行の妨害はなく、アレクシオス1世のセルジューク朝討伐のための傭兵要請が十字軍発足の口実となってしまったとも言われています。)
十字軍の意義
「十字軍(Crusades)」の呼称は、参加した者が「教会の兵士」となることを誓った印として教皇の代理人から渡される十字型の布を衣服に縫い付けていたことに由来して付けられたそうです。(従軍した当事者たちが十字軍という言葉を使っていたのかは定かではありません。)
当時民衆の間でも宗教意識が非常に高かったため、ウルバヌス2世の唱えた「聖地回復」「十字軍」という思想は西欧各国を巻き込む一大運動へと発展し、騎士達のみならず大勢の一般民衆もエルサレムへと旅立ちました。(ここには聖地回復とともに自らの新天地を求める感情が大きく加担していたようです)。
Paus Urbanus II predikt de eerste kruistocht, RP-P-1896-A-19368-407
(クレルモン宗教会議でのウルバヌス2世の名演説の後、同じ内容の演説がイタリア・フランス・ドイツ等各地の司教によって行われたことで農民などの庶民も含めた熱狂的な民衆十字軍を生み出したようです)
参加した多くの人々の動機は宗教的な情熱(また移住の地への期待)でありましたが、
それを提唱した教皇としては当時神聖ローマ皇帝と争っていた叙任権闘争(聖職者を任命する権利を皇帝と教皇のどちらが持つかの闘争)を優位にする意思が強かったようです(実際に第一回十字軍の勝利により聖地回復が実現したことから世論的にも教皇の権威が皇帝より秀でることになります)。
皇帝vs教皇の叙任権闘争で有名な「カノッサの屈辱」
またビザンツ皇帝(東ローマ皇帝)の要請に応えることで、1054年互いに破門し合い東西に分離した東方正教とカトリックの再統合に優位性を持たせることも考慮していたと思われています(西のカトリック側では東の正教会が自らに帰属する形での服従を望んできており、過去の不幸な決裂を今こそ修復し教会を再合同体にしようとの思いがあったと言われています)。
この十字軍運動は各地で侵略合戦をしていた西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだものと言われています。
第一次十字軍成功
1096年にヨーロッパから出発した第一次十字軍は、1099年エルサレム占領に成功。
キリスト教国「エルサレム王国」とその周辺に十字軍国家計4カ国を設立し、これに伴い多くのキリスト教徒がこの地域に移住しました。
この功績によって12~13世紀ローマ教皇の権威は絶大なものとなったと言われています(いわゆるローマ教皇の最盛期)。
しかし旅の途中で行われた残虐非道な行い(略奪残虐行為、市民の人肉食を行った等)は後世に亘るまでムスリムとの間に強い軋轢を生む記録となります。
EroberungJerusalems2 (上段はイエスのいたエルサレムと十字軍がきたエルサレム、中段は斬首されるユダヤ人、下段はエルサレムを血の海にする十字軍)
当初東方正教会との和解がカトリック(教皇)側の十字軍派遣の目的の1つであったにも関わらず、
十字軍のエルサレムでのユダヤ・イスラム・正教会徒への残虐行為、また正教会のエルサレム総主教(東方正教会最高位聖職者)を追放しカトリックの総大司教を代わりに置いたことが原因で、それまで教義上は分裂しつつも名目の上では一体であり互いの既存権益を尊重しつつ完全な決裂には至っていなかった両教会の関係の溝はますます深まることになりました。
エルサレム王国/十字軍国家と騎士団 創設
この十字軍を皮切りに、現地(十字軍戦地となった現在のイスラエル・シリア内)に4つの十字軍国家(現代の感覚でいうと国家というよりは城を有する植民地)がつくられました。
西欧から遠く離れ、イスラム勢に囲まれた最前線であることから強力な軍事力が常に求められましたが、それを叶えるほどの移民数の確保もできず(十字軍国家におけるヨーロッパ系住民は全人口の20%程度)、イスラム勢と対抗するための軍事力基盤は確立できていない状態であったと言います。
十字軍国家:エデッサ伯国・アンティオキア公国・トリポリ伯国・エルサレム王国
この十字軍国家の軍事力不足を補うためにつくりだされたのが騎士修道会(騎士団)です。
1113年認可の聖ヨハネ騎士団
1119年創設のテンプル騎士団
1199年ドイツ騎士団
この三大騎士団がエルサレムおよび十字軍国家内に駐屯し、実質的常備軍としてキリスト教諸国家の防衛にあたりました。
「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成できたのは第1回が最初で最後となります。
その後1187年にアイユーブ朝のサラディンによりエルサレムが奪還され、イスラム教徒の支配下に置かれてからは、計7回の十字軍派遣を介してもエルサレムの再奪還は叶わず、むしろ第四次十字軍の行ったコンスタンチノープル包囲戦に代表される略奪と残虐行為の数々により東西の確執を深め、世界的にも非難を受けることとなりました。
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イスラムから見た十字軍