聖ヨハネ騎士団とは?
聖地エルサレムにはキリスト教巡礼者のための病院がありました。
創設は西暦7世紀ローマ教皇グレゴリウス一世によります。
1005年、ファーティマ朝(エジプトを中心に北アフリカを牛耳っていたイスラム王朝)6代目カリフ・ハーキムの異教徒迫害により破壊されますが、1023年イタリア アマルフィとサレルモの商人たちが、七代カリフ・ザーヒルの許可を得てエルサレムの洗礼者ヨハネ修道院の跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊を再建します。
第一次十字軍によるエルサレム王国樹立後、この聖ヨハネ病院の管理者であったフランス人騎士修道士ジェラール・タンクの努力(十字軍への情報/物資提供などのスパイ活動の後、イスラム軍の拷問によって歩けない身体になったと言われています)の末、1113年に病院のみならず修道会としての存在を確立します(教皇から騎士修道会として承認を得る)。
→正式名称:聖ヨハネ病院独立騎士修道会
1113年にエルサレムで十字軍の負傷者・病人の看護と貧者救済を目的に創設された修道士の組織だった聖ヨハネ騎士団は当初はホスピタル騎士団と呼ばれ、最大2000人が収容可能といわれた病院や宿泊施設を運営し、騎士出身の修道士(騎士と呼ばれていても、公的には修道請願を立てた修道士であり、本来的な意味での騎士ではない)も平時には病院での医療奉仕が義務付けられ「病院・巡礼者の保護」という趣旨が色濃く残っていた。
しかしその後エルサレムと十字軍国家に併せて、2つの大要塞(クラック・デ・シュヴァリエとマルガット城)と140の砦の防衛の主力となることが求められ、徐々に軍事的色彩を強め、彼らは戦士でもある修道士に姿を変えていきました。
1291年全ての十字軍国家が陥落し、エルサレムを撤退した後にはキプロスに一時逃れ、1309年にロドス島を東ローマ帝国から奪い本拠地とします。
アッコン陥落(十字軍vsイスラム軍 最後の戦い) 城壁を守る聖ヨハネ騎士団
聖ヨハネ→ロドス騎士団へ
十字軍最後の砦アッコンが陥落し、アラブから撤退しなければならなくなった騎士団は、キプロスに逃げ、一定期間そこからイスラムへの海賊行為を繰り返し抵抗します。
1309年に当時東ローマ帝国領だったロドス島を占領し、ここを本拠地としたことで、聖ヨハネ騎士団からロドス騎士団と呼称が変わります。
約200年間、この島を城塞都市に仕上げ、島の実権を握りながら聖地奪還/イスラムとの戦いに備えていました。
1312年にテンプル騎士団が冤罪でフランス王フィリップ4世によって解散(処刑)されると、その膨大な財産のかなりの部分がロドス騎士団に引き継がれることになりました。また中東のイスラム勢と戦う唯一の主要な騎士修道会となったため、西欧から多額の寄進を受けることができ、資金には事欠かさなかったことがうかがえます。
騎士団の構成員は騎士が500人程度で、母国語によって8つの騎士館グループに分かれていました。
各グループ毎に騎士館長(戦闘の際には部隊長となる)がおり、全体を騎士団総長が統率しました。各騎士館の構成員数にはばらつきがあり、フランスの3騎士館とスペインの2騎士館が2トップだったようです。
1444年〜1480年にイスラム勢力からの襲撃が何度かあったもののこれを撃退。
しかし1522年にオスマン帝国が騎士団側の20倍以上兵を引き連れ侵攻、必死の攻防も敵わずシチリア島へ撤退することになり、本拠地を失います。
ロドス→マルタ騎士団
そんな聖ヨハネ騎士団にマルタ島の使用を許可したのが神聖ローマ帝国カール5世(スペイン王カルロス1世)でした。
当初騎士団はこの申し出に乗り気というよりは、ロドス島奪還を理想としていたようでした。
マルタを与えられる条件として当時スペイン領の北アフリカ沿岸トリポリをイスラム系海賊から守る事を指定されていたように、カール5世の申し出を受けることはスペイン王国への全面的な従事をやむなくされ今までのような騎士団の独自性が失われる事、またマルタ島の5倍以上の面積があり、東ローマ帝国時代からの要塞が利用できたロドスと比べればマルタは価値の乏しい島に思えたからでした。
しかし選択の余地はなく、1530年にマルタ入りし、また1からこの島の要塞化を進めていくことになります。
当時のマルタは島の中央部にあるイムディーナが首都で、そこでマルタの貴族や僧侶が暮らしていました。
カール5世から「マルタの貴族や僧侶を侵すな」と条件を付けられていたため、聖ヨハネ騎士団は拠点地を、複雑な海岸線と船を停泊させるに十分な深さを持つ天然の良港で古代から要塞としても使用されていた北東の入り江に設定し、ビルグ(現ヴィットリオーザ)・セングレア・ボルミア(現コスピークワ)という3つの町・スリーシティーズを主要都市としてつくりあげます。(ヴァレッタはオスマン帝国との戦いの後に築かれた街です。)
岬のビルグには聖アンジェロ砦を建て、海に面する部分を全て城壁でかためました。
マルタでの騎士団
岩盤からなる島であるマルタでは資源の不足を補う為、騎士団は地中海を横切るオスマン帝国商人やギリシャ商人の商船を襲撃する海賊行為を常とするようになりました。
(建前としてはイスラム教徒やユダヤ教徒の船から略奪を行うことは異教徒断罪に含まれるといったものでした。)
この騎士団の海賊行為は、公的なものと私的なものに分かれていたようですが、公的なものは修道会の船によって行われ「隊商航海」と呼ばれ、16世紀以降はマルタ騎士団志願者は最低三度の隊商航海への参加が義務付けられたそうです。
このマルタ騎士団の隊商航海の様子がその武勇団と共にヨーロッパではパンフレットに載せられ、結果騎士団の数はロドス島の頃の2倍にも膨れ上がっていたそうなので、当時は異教徒への海賊行為が公式なものとして受け取られていたことが分かります。
しかし一方では私的な海賊行為はそれ以上に盛んに行われ、いつしか異教徒の戦いが当初の目的を失い、海賊行為のために海上戦力の強化がなされるようになっていった為、多くの荒くれ者がマルタに集まり、島の秩序は崩れていったようです。
また当時のマルタは人口比ではヨーロッパ最多のイスラム奴隷がおり、
イスラム教徒とユダヤ人の奴隷売買の中心地ともなり、
まさに海賊島のように化していたことが分かります。
ヴァレッタのSaint George’s Squareは公式な奴隷市場として当時機能し、ロウワーバラッカガーデンの周辺の城壁の中は奴隷の牢屋として作りこまれていました。
イスラム勢との戦い
1540年〜1550年代に西地中海の至る所でバルバリア海賊の襲撃が相次ぎます。(キリスト教徒奴隷をイスラム市場に売ることを生業とする海賊。16世紀から19世紀、バルバリア海賊は80万人ないし125万人の人々を捕まえて奴隷にしたと推計されており、スペインやイタリアの海岸線はほとんど全て住民が放棄することになり、19世紀まで定住が進まなかったほどの被害を受けているそうです。)
1551年にはバルバリア海賊とオスマン帝国の1万の軍勢がマルタに侵攻、この際にゴゾ島とトリポリを占領されました(この際ゴゾ島の大部分の住民が奴隷として捕らえれれています)。
この際、バルバリア海賊の再侵攻を1年以内に想定した騎士団によってビルグの聖アンジェロ砦の強化と新たにセングレアに聖ミケーネ砦と現ヴァレッタに聖エルモ砦の建設を行います。
(その後数年間は海賊との衝突は各所であるものの大規模な侵攻は受けず)
1559年にはトリポリの奪還のためスペイン王国と合同の遠征を行うが大敗します。
1565年、オスマン帝国の大艦隊がマルタに侵攻します。
軍編成としてはマルタ側が6000人弱に対しオスマン側は4万強。
5/8の夜明け、オスマン艦隊はまずマルサシュロックに停泊、その後グランド・ハーバーに陸側から接近し、聖エルモ砦の攻略に取りかかりました。
聖エルモ砦には騎士100人と兵士500人が配置され、シチリアからの援軍が来るまで砦の死守を指示されていましたが、オスマン側は周囲36箇所に砲台を構え猛烈な砲撃を加え、約一週間で聖エルモ砦は瓦礫と見紛うばかりに破壊されたといいます。その後も猛攻撃に耐え続けましたが、約1ヶ月後、聖エルモ砦は陥落。
その後オスマン側はビルグとセングレアを包囲、首都も併せて攻撃を開始します。
ビルグの聖アンジェロ砦(上)、セングレアの聖ミケーレ砦(下)周辺のマルタ包囲戦の様子
戦闘は五ヶ月間に及び騎士団側は陥落寸前でしたがそこにスペインの援軍が到着、その情報を受けたオスマン側の撤退をもってなんとか防衛に成功するかたちとなりました。
マルタ島包囲戦 – オスマン帝国艦隊の集結 マッテオ・ペレズ・ダレッチョ
被害は甚大であったもののヨーロッパ中から多額の献金が島へ流れ込み、これを基にマルタの整備がされていくことになります。
またこの戦いは16世紀におけるオスマン帝国最初の敗北となり、スペイン王国の指揮を引き上げることとなりました。
激戦に耐えたビルクの街にはヴィットリオーザ(勝利の街)、セングレアにはインヴィッタ(無敵の街)、ボルミアにはコスピークワ(顕著な街)という名前が与えられ、オスマン帝国のさらなる攻撃に備えるために騎士団総長ジャン・パリソ・ドゥ・ラ・ヴァレットから名前をとった要塞都市ヴァレッタの建設が始まります。奴隷8000人と12歳から60歳のマルタ人が建設に関わり1568年に今の形として完成したそうです。
Grand Master Jean de la Valette
マルタ騎士団はこのヴァレッタを中心に今に残る様々な重要な建築物を建造していきます。
1573年には聖ヨハネ大聖堂が完成し、その中には1602年にはローマで殺人事件を起こしマルタ騎士団に庇護を求めてやってきた名匠カラヴァッジョに描かせた「聖ヨハネの斬首」が飾られています。
その後も何度かオスマン帝国による襲撃はあったもののそれらすべての迎撃に成功しています。